吾こそは上杉謙信なり!
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ゆかりの地

旧栃尾市(合併して現:長岡市)は、彼が19歳で春日山城の城主になるまで、過ごした場所です。春日山城にあがるまでの6年間を栃尾の地を拠点とし、中越地区の平定のため、大いなる活躍をしました。

常安寺

常安寺の前身は瑞麟寺といい、父・長尾為景の命で、中越地方で起こっている反乱や動乱を沈め、国民を安心させるために栃尾城に入城しました。その当時、栃尾にあった名刹・瑞麟寺の五世門察和尚の薫陶(徳の力で人を感化・教育すること)を受けて、『義』を重んずる清廉な人格を作り上げました。1547年、天文16年に、越後国守になっていた謙信自らが開祖となって、恩師、門察和尚のために常安寺を創建して寄進しました。現在ある本堂は昭和54年に再建されたものですが、当時の常安寺は、七堂伽藍のある、豪華なものでしたが、火が出て消失し、元禄14年に再建されました。現在でも常安寺には謙信直筆の五言対句や、かぶとの前立てなどが保管されています。これは米沢市にある上杉家から、謙信の位牌と共に常安寺に贈られたものです。このかぶとの前立ては、迦楼羅姿の飯綱権現が疾走する霊狐に前向きに立ち乗っているもので、権現像は金メッキ、狐は真鍮でできていて、金色に輝いています。信仰心の厚かった謙信は、何度と続く川中島の合戦の際には、飯綱山に祀られている飯綱権現に上杉軍の勝利を祈願し、それがかぶとの前立てとして頭上につけるようになったのです。

瑞麟寺梵鐘

現在、常安寺に保管されている梵鐘で、修行を行ったと言われている瑞麟寺の唯一残っている遺品です。典型的な和鐘で、袈裟たすきと呼ばれる縦横の帯状の2ヶ所に撞座をつけたものです。高さ74.8cm、口径62.8cmの、梵鐘としては小ぶりのものです。銘文は『越後国古志郡膳憧山瑞麟寺堂前用也』『大永3年7月19日 願主 檀越道見』とあります。

秋葉神社

楡原岩野の地に、大同年間に奈良から勧諦された、蔵王権現があり、越後一の修験道場だったそうです。その後、三島郡の卯あだ、長岡の現在の金峰神社である蔵王に移されました。それらの末者が秋葉権現で、上杉謙信が天文20年、常安寺に開基のしるしとして寄進したものです。門察和尚に対して、『先年不慮の戦争の折には大変忠心をつくされた。それで開基のしるしとして般若院並びに法用寺分を寄進する』と、寺院あての行状を書いています。現在ある建物は1776年、安永5年に建てられたもので、1996年、平成8年に一部改修されています。奥の院は全てが欅で作られていて、とても美しい作りになっています。この秋葉神社は、遠州秋葉山と共に、秋葉信仰の二大霊山としてとても有名です。

謙信廟

移転する前の謙信廟は、秋葉山の頂上にありました。大正4年に、明治41年から行われている謙信祭りの10周年記念事業として、祀る祠と登り口に石造りの大鳥居を作りました。謙信廟の建設を米沢市の上杉家に相談したところ、大変喜ばれ、謙信が使っていた兜の前立てと、厨子入りの2基ある位牌のうち1基、御香典1封を賜りました。位牌と兜の前立ては常安寺に大切に保管されており、前立ては文化財にも指定されています。現在、謙信廟は栃尾美術館に移転されていて、門察和尚のお墓と謙信廟が秋葉神社を見下ろすように並んでします。

春日山城

春日山城

春日山城は、彼が産まれた場所でもあります。新潟県上越市にある山城跡で、主に長尾氏の居城として使われ、城としても知られています。越後国守守護の上杉氏が、南北朝時代に、越後府中の詰め城として築城したのは始まりと言われています。永正4年、守護代だった謙信の父、長尾為景が植えすぎ定実を擁立して、それまでの守護であった上杉房能を城から追放し、新しい守護として定実が府中に入ると、新しい城主として、長尾氏が春日山城に入城しました。この城は、上越市の中部にある、春日山の山頂に築かれ、難攻不落の城として、長尾為景、長尾晴景、上杉謙信、上杉景勝と4代の居城となりましたが、景勝が会津に移った後、越後を支配した堀氏が新しく福島城を築城したために、春日山城は静かにその役目を終えました。現在、春日山城跡を訪れるには、あまりにも広大な規模なので運動靴と飲料水を持参して訪れることをオススメします。

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