吾こそは上杉謙信なり!
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生い立ち

天才的な戦国武将。これまで、映画やテレビドラマなどでも取り上げられ、数多くの俳優が演じてきました。ここ数年、演じてきたのは、若い女性層に人気のあるGacktや松岡昌宏、阿部寛などで、これまで歴史に興味のなかった女性たちも、歴史に目を向けるきっかけとなりました。

春日山城で誕生

産声を上げたのは、1530年、享禄3年1月21日、越後の春日山城(現在の新潟県上越市)です。長尾為景(ながおためかげ)の四男としてこの世に生を受けました。寅年に生まれたことから、幼名は虎千代と言いました。元服後は景虎となります。

幼少期の虎千代

春日山城

まだ4歳ほどの幼い頃から、他の子供と比べても比較にならないくらい体格が大きく、性格も子供らしくありませんでした。年上ばかりと好んで遊び、相撲や太刀打ち、組打ちなどを好み、自分よりも年上の子供を泣かせてしまうほどでした。強い子に育つようにと願っていた親でさえ、乱暴な虎千代に手を焼いて困り果てるほどでした。虎千代の守り役だった者は、大人に説くような教えでも、しっかり理解している頭の良さに驚いたそうです。ただ、兄達と比べると疳の強いところがあり、かなり育てにくい子供でしたが、頭の良さと、全ての行動に意味があることから、『この子は天から得難きものを得ているようだ』と口にしていたと言います。

お寺での生活

虎千代は7歳になると、春日山城下にある林泉寺に預けられました。天室和尚に預けて、手に余る虎千代を教育してもらおうと父・為景は考えたのです。願いもむなしく、虎千代は墓石を倒したり、寺男に木刀で打ち込んだりと、乱暴な行動はとどまるところを知りませんでした。ところが、父・為景が没したことを聞かされた虎千代は、それを境に見違えるほど落ち着いた子供になり、そのあまりの変わりように、天室和尚は、虎千代に学問や書道などの教育に、自然と力が入るようになっていきました。こうして、人間の土台が築かれていったのです。

少年期

1543年、天文12年8月15日に元服して平三景虎となります。中越の長尾家領を統治するために、栃尾城に入ることになります。病弱な兄、晴景は内紛を治めることができず、越後の豪族は晴景を侮って反乱を起こしていました。この豪族をわずか14歳の景虎は、初陣で討伐してしまいます。戦の先頭に立ち、敵を打ち破って勝利を治めた少年武将に、人々は驚きました。

青年期

織田信長

越後の動乱は、収まる気配を見せず、景虎は何度も出陣することになります。そのたびに勝利を治めていました。ところが、長尾氏の重臣でもある黒田秀忠が謀反を起こします。謀反とは裏切りのことです。景虎は兄、晴景を案じて春日山城に戻り、黒田討伐に出陣するのですが、黒田が勢いにおののいてすぐさま降状したので、景虎は栃尾に戻ります。しかし、黒田は再び謀反を起こします。景虎は、人のふみ行うべき正しい道筋を重んじる性格です。一度降伏して忠誠を誓ったにも関わらず、時期を見計らって再び謀反を起こした黒田が信用できない、信用できない者は家臣ではないとして、晴影と共に兵を従えて、一気に黒田秀忠の一族を滅ぼしてしまいました。

国主となるまで

肖像画

勝ち戦を続ける景虎の信頼と人望はかなりのものでした。けれど、兄・晴景は、弟・景虎がいつか自分の力を超えるであろうと恐れており、従兄弟でもある長尾政景もまた、それを恐れていました。諸将を味方に引き入れて、晴景を陥れようとしていると進言したのです。先手を取った方が勝ちだと晴景に入れ知恵し、政景は六千の兵を引き連れ、景虎の城に攻め入ります。しかし事前に感づいていた景虎は、迎え打つ準備をしていました。この状態を上杉定実が知り、晴景に景虎と和議を結んで、養子に迎えるようにとの画策をします。景虎もこれに承諾し、兄弟は父子の義を結び、景虎は長尾氏を継ぐことになりました。さらに定実は晴景を隠居させ、春日山城城主・守護代として景虎に務めるようにしたのです。2年後、定実が、その3年後には晴景が没し、景虎は越後の国を名実共に治める国主になったのです。

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