吾こそは上杉謙信なり!
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上杉謙信と織田信長

織田信長は、本能寺の変で明智光秀の謀反によって自ら命を落としたことで有名ですが、それより遡ること6年前、上杉謙信とも戦っているのです。1573年に武田信玄が病没し、3年後、上杉謙信は織田信長軍と刀を交えることになるのです。余談ですが、信玄亡き後、武田家を滅亡に追いやったのは織田信長です。

手取川の戦い

織田信長

武田信玄が病没したあと、西に向って領土を拡大すべく、進軍していきます。織田信長と対立しはじめた、当時の将軍、足利義昭が京都に上洛するようにと要請したためだと言われています。1576年、天正4年2月、織田信長との戦いによって苦戦を強いられていた本願寺顕如と互いに協定を結んで戦をやめ、平和回復することを上杉謙信は交わします。武田信玄の息子、武田勝頼とも和睦し、それまで信長と結んでいた同盟を破棄し毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが上杉謙信を盟主として、反信長包囲網を築き上げ、信長との対立を明らかにしました。織田信長と上杉謙信、手取川の戦いと言われる合戦の発端となった出来事は、能登国を支配下にするべく侵攻していた謙信に対し、能登当主、能登畠山氏が七尾城に籠城します。屈指の堅城と言われていただけあり、戦いは翌年にまでもつれこむものとなりました。能登畠山氏の重臣が織田信長に救援を求め、信長もこれに答えます。柴田勝家を総大将にした1万8千の援軍を先発させて、信長も3千の軍を率いて後から出発しました。しかし、援軍到着前に謀反が起こり、七尾城は落城することになります。

戦いの火蓋

肖像画

七尾城落城を知らないまま進む織田信長の援軍は、柴田勝家と羽柴秀吉が意見の対立から離陣するなどして内部の統制も乱れていました。織田軍が向っているのを知った彼は、すぐに七尾城を出て手取川附近の松任城に入ります。織田軍の先発隊だった柴田勝家は、1万8千の兵が全員手取川を渡り終えたときに、ようやく七尾城が落城したこと、上杉謙信の軍が松任城に入っていることを知ります。慌てて撤退を命令しますが、撤退途中に雨で増水した河を渡るのに手惑い、更には上杉軍の追撃を受けて、餌食になったと言われています。織田信長は大雨のために思うように進軍できずに不在のままでした。織田軍は2000人近く討ちとられ、更には手取川で溺れて数千人が命を落としました。上杉軍の大勝利に終わったのです。戦わずして退却し、信長はこの戦いで、彼の存在をとても恐れたと言われています。彼を恐れるあまり、信長の北陸侵略は謙信が没するまで停滞したほどです。この手取川の戦いで圧勝し、能登から加賀国のほとんどを支配下に置き、織田信長よりも優位になりました。翌年3月に上洛をしようとしましたが、実現しないままこの世を去ることになります。

謙信最期の戦い

織田軍との戦いの、手取川の戦いが、最強の戦国武将といわれた上杉謙信、最期の戦いとなりました。手取川の戦いの翌年、1577年、天正5年12月18日、春日山城に戻り、5日後の12月23日には次の遠征に向けての大動員令を出しました。翌年の3月15日に上洛を開始の予定でした。しかし、この旅の直前に還らぬ人となるのです。

同じ四十九歳で生涯を閉じる

1578年、天正6年3月9日。上洛の遠征の準備中に、春日山城で倒れ、3日後の13日にこの世を去ります。(【越後の虎】の『上杉謙信の最期』参照)その4年後の1582年には、本能寺の変によって、織田信長もこの世をさることになります。奇しくも、上杉謙信、織田信長、どちらも享年49歳でした。

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