吾こそは上杉謙信なり!
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女性説

最強の戦国武将と呼ばれた上杉謙信に、実は男性ではなく、女性説があるのをご存知ですか?義を大切にし、頭脳明晰で、戦略を立てて戦うと負け知らずです。信憑性の程はともかくとして女性だったとは信じられませんよね。

生涯独身を通したわけ

生涯独身を通して妻をめとらず、子供もありませんでした。そのため、養子を迎えています。ではどうして妻をとらなかったのでしょうか。それは自信が女だったからではないでしょうか。

生涯不犯

一説には、結婚しない理由を、生涯不犯を守り通したためとも言われています。生涯不犯とは、一生結婚せずに独身を通すということです。本来の不犯の意味は、『邪淫戒を守り、異性と交わってはならない』とするもので、邪淫戒とは、仏教の信者が守らなければいけない、五戒という基本的な5つの契約の1つで、『夫婦以外と交わってはならない』というものです。ですから生涯未婚でいたので、『生涯異性と交わっていない』という意味になります。

肖像画とは違う顔?

肖像画

私たちが目にする肖像画は、ヒゲが生えていて、いかにも無骨な強そうなイメージを抱きます。でも、この肖像画は、実際の顔とは違うと言われています。私たちがよく見る謙信の肖像画ですが、これは謙信亡き後の江戸時代に、画家のイメージで描かせたものだと言われています。戦国時代では当たり前だった女性城主も江戸時代になると認められなくなったため、仮に女であったことが分かってしまうと、時代に遡ってお家断絶になってしまう恐れがあったからだと言う説があります。そこで、どこから見ても男だというように、当時の武士では当たり前だった、ヒゲの生えた肖像画になったのだそうです。

まんとらさま

越後には、ごぜ唄というものがあります。ごぜ唄とは、目の見えない女芸人が、太鼓や三味線を弾きながら歌う民謡や俗謡、語り物の弾き語りのことで、そのごぜ唄の中に、『白虫赤虫一二匹、まんじ巴とくるうなか、とらどしとらずきとらの日に、生まれたまいしまんとらさまは、城山さまのおんために、赤槍たててご出陣。男もおよばぬ大力無双』とあります。まんとらさまは上杉謙信のことで、『男もおよばぬ〜』とあるところから、女性のことを歌っていることが分かります。

まんとら=謙信

唄の中に、『とらどしとらづきとらの日』とあるのが、寅年の寅月(1月)寅の日(21日)に生まれたとあり、彼のことだということが分かります。なにより、『まんとらさま』と言うのが、『政寅さま』だと解釈できることです。以前、『政』というのは『まん』と読まれ、大奥でも『お政の方さま(おまんのかたさま)』と呼ばれたりし、政=まん と言うことが分かります。これは、女性である謙信が、戦にでかけていくという唄なのです。

脳卒中ではなく大虫

春日山城のお手洗いで、脳卒中で倒れ、それがもとで命を落としたと言われています。女性説で注目するところは、倒れたところがお手洗いとされるところです。この倒れた原因が脳卒中ではないということです。まず、なぜ脳卒中ではなかったと言うと、歴史的資料、『当代記』(戦国末期から江戸初期まで、伊勢亀山城主・松平忠明が克明に書き記したもの)によると、『越後景虎四十九歳歿、大虫という』とあります。大虫は、当時では『しゃくの虫、婦人の血の道を起こす』というもので、現在で言えば更年期障害・婦人病のことです。(謙信の死因が脳卒中ではなく、腹痛と書かれている資料もあるらしいです)

生理痛?

毎月10日前後になると、腹痛があるとして、合戦中にもかかわらず、兵を引いて城に引き篭もっていたそうです。上杉領に北条軍が侵攻してきたときも、6月11日から腹痛を訴えて10日ほど城に籠り、出陣もせずに子守りをしていたと言われています。城のお手洗いで倒れたのも3月9日。ちょうど生理の頃だと考えると、女性説につながっていくわけです。

外国人から見た謙信

外国では女性だとされています。当時のスペイン国王のフェリベ2世は、日本に人材を派遣して黄金探しをさせていました。その中にゴンザレスという人物がおり、スペインへの報告書の中で書かれており、上杉景勝の叔母として、報告されています。景勝は養子になる前は、謙信の姉の子供であったので、彼が男であれば叔父でなければいけません。これも女性であるとする説の原因の一つです。

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