吾こそは上杉謙信なり!
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毘沙門天

毘沙門天(びしゃもんてん)は梵名をヴァイシュラヴァナと言い、持国天、増長天、広目天と並ぶ、四天王の一尊であり、武神です。インド神話の財宝神のクベーラが前身になっていて、『よく聞く所の者』という意味に解釈し、『多聞天』とも呼ばれています。日本では、四天王の一尊として像が安置されるときは『多聞天』と呼び、四天王としてではなく、独尊像として安置するときは『毘沙門天』と呼ばれています。

上杉謙信と毘沙門天

自分は毘沙門天の生まれ変わりだと信じていました。戦の神である毘沙門天を自分の前世だとするも、戦国時代の最強の武将と言われていましたので、毘沙門天と自分自身を重ね合わせて見ていたのかもしれません。

謙信の合戦好き

毘沙門天

合戦好きだと言われています。幼い頃はかなりの乱暴者だったと言われていますので、三つ子の魂百までを実践していたのでしょうか。謙信14歳のときに、武将として初陣を勝利で飾りましたが、それ以後も越後国内を駆け回り、負け知らずの戦を繰り広げました。父・為景が没した頃は、越後の国民は敵対意識を持つ者も多かったのですが、勇猛ぶりを見聞きして、兄、晴景ではなく、その弟の謙信をもり立てて、高い地位に就かせようとする動きが出てきました。結果的には晴景が隠居し、家督を継ぐことになります。戦いぶりは負け知らずではありませんでしたが、どれだけ勝利しても領土はひろがりませんでした。戦に勝利して領土を大きくしても、自国に引き上げるとすぐに取り返されてしまうことを繰り返していたのです。義を通すことはしても、領土欲がなかったためだと言われていますが、実際のところは越後での兵農分離がされていないところにありました。雪の降る農閑期には兵になって合戦をし、人々が飢えないようにしていましたが、戦に勝利して領土を占領しても、農繁期になると国に帰らなければいけません。そうすると、簡単に領土は取り返されてしまいます。自らを毘沙門天の生まれ変わりとしていても、人々を救うために戦うことは忘れてはいませんでした。

『毘』と『龍』の旗の意味

旗

戦いのときに用いた旗の文字は、『毘の一字旗』と『懸かり乱れ龍』です。その他にも、『天賜の御旗』とも『日の御旗』とも呼ばれる、紺地に赤の日の丸の旗になり、馬標であったと言われています。『毘』の旗は、言わずもがな、上杉謙信が信仰していた毘沙門天の一文字をとったものです。『龍』の旗は、総攻撃の合図に使われた旗です。この旗をたてて突撃の合図にしました。『天賜の御旗』は、父、長尾為景が朝廷から下賜され、上杉家の重宝とされるものです。普段は毘沙門堂に納められていて、戦になると安養院の僧が守っていたと言われています。紺地の旗の上部に赤い日の丸がついているものや、紺色の扇に赤い日の丸がついているものだったりします。この軍旗の下で、多くの兵たちが命をかけて戦ったのです。

謙信の家紋

上杉謙信の家紋

元々長尾氏だったものが、越後上杉氏になっています。山内上杉憲政から景虎のときに譲り受けて上杉氏に改めています。長尾氏の家紋は『九曜巴』です。上杉氏の家紋は『竹に飛び雀』です。竹は元々五節の竹でしたが、後に文様化されてしまっています。仙台の伊達氏も同じ『竹に飛び雀』の紋を使っていますが、これは上杉氏から譲られたものです。伊達氏の家紋の竹は文様化しておらず、竹笹の意匠が保たれています。上杉氏は藤原北家勧修寺流で、この紋は代表紋でもあり、勧修寺流の家は皆この『竹に飛び雀』の紋を使っています。この紋は関東から奥羽に拡がっていて、いずれも上杉氏に送られたことからきています。

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